水曜定休
いちのセブン創業まで
学校を卒業後18歳で、当時鶴来本町にあった安藤という、旅館兼呉服屋に住み込みの店員になりました。近在の農家向けにもんぺや割烹着などを行商することから始めましたが、呉服も無いかと聞かれ、徐々に呉服の知識も勉強して売るようになりました。
昭和37年に今の場所に6坪の店舗を構え、衣料雑貨を売り始めます。当時は呉服屋に勢いがあった時期で、鶴来の呉服では安藤に次いで二番目の売り上げを誇ったこともありました。鶴来に遊郭があった頃は、芸妓に贈るので値段かまわずもってこいと言われ、たいそう繁盛したものでした。
紳士服は昔は高価なものが売れましたし、材木屋さんが良いお得意さんでしたが、高度成長期以降、土木建設業のお客様も増えました。今はスーツ等も価格が安くなりましたが、当時は10万円以上するものがよく売れました。
京阪神を中心に服を仕入れており、コア店と小松店あわせて、北陸三県で紳士服を一番売り上げた時代もありました。
ちょうどテレビでアランドロンのダーバンを宣伝していた頃です。VANなど有名なものも全部仕入れました。
いまでは服装全体がカジュアルになり、ネクタイを締めることがよほどのことでもない限り無くなりました。
スーツにネクタイをするのは地元でも金融関係や役場関係くらいでしょう。流行も早くなり、紳士服も大型店で大量販売するので、商売も難しくなりました。
和装小物から結納品まで品質本位・信用第一がモットーです。
中央通り商店街21軒
金劔宮の男坂につながる参道は、中央通り商店街として賑わっていました。店舗で無いものは肉屋さんなどいくつかの業種だけで、当時は辰口や寺井、白山下までの電車もあって、乗り換え駅として鶴来は賑わったものです。
また今の昆虫館の場所にあった鶴来高校の学生さんがよく利用してくれました。今は白山市への合併で役場に来る人も少なくなったし、高校も移転してひとの流れが完全に変わりました。
昭和51年野々市にジャスコができた当時、買い物客の流出を止めるために58年コアを作り、さらに旧町活性化としてレッツが出来ましたが、平成3年レッツの完成にあわせて中央通りから徐々にひと通りがうつってしまいました。
ほうらい祭りの衣裳
祭りの法被は鶴来独特の短めのかたちで、素材はウールですが、いまでは国内の織物メーカーで作るところはなくなってしまいました。
また祭りの進行役などが着る紋付袴ですが、正絹の袴は非常に高価だし、化繊は風が吹くとぺらぺらする生地なので、私が大阪まで行ってウールの生地を買い付けて、袴に仕立てました。これも製造中止した生地なので、あるだけを全部をうちで仕入れてきました。
祭りの男衆が付ける懸帯(けんたい)ですが、友達同士で同じ柄を仕立てたりもします。柄を新規に作り、刺繍は能登でやってもらっていますが、凝ったものでは美川刺繍などでもできます。
和装小物
神輿をかつぐ初老会の人たちが腰にさげているのがたばこ袋です。和装の巾着袋の小型版といったもので、手作りのものを下げているひともいます。手頃な価格で、デジカメなどの小物入れに買ってゆくひとがいます。また風呂敷や手ぬぐいなどもあります。
紳士服と呉服
今はスーツは3-4万円でできますし、シャツや靴など全部で7万円で揃います。高級なものをセールのときに銀座で作らせることもやっています。今の売り方は見本で一着展示して注文を取るのが主流ですが、買い物の楽しみはいろんなものを比べて選ぶことにあります。うちではすくなくとも5着は柄を比べられるように在庫しています。
呉服の売り場では金沢も含め有数のものでしょう。呉服もセールの時はいろいろ揃えて見て楽しめる品揃えをしたいとおもっています。
商店の魅力とは
豊富な品揃えとお客様が気楽に商品を見られることでしょう。店に入ったらすぐに店員がつきまとうのは落ち着かない。まずは接客が重要です。接客に品があれば、良いお客さんがついてきます。以前うちにいた店員は接客上手で金沢でも有名でした。
人材の育成こそ店の繁盛につながると思っています。いちのも接客上手な良いスタッフに恵まれたおかげで、これまで店を続けてこられました。仕事の満足とは、セールのチラシを入れて、お客様がやってきてくださることに尽きると思います。